その女はある王家を滅ぼした。
俺らの国よりずっと大きくて、大陸のほぼ全土を支配していた国の玉座に居座る者と、それに忠誠を誓っていた者たちを女はたった一晩で滅ぼした。
王も、王妃も、王子も王女も、血が繋がっているのかすら不明な遠縁までも、残らずその命を途絶えさせられた。国に残っていたのは、大火によって焼け焦げた城と、恐怖に慄く民だけだった。
女は、いち早く君主亡き玉座を奪ったこの国、ツァイリッタ国王によってすぐに捕えられた。
罪状は尊き者たちの命を奪った罪とか弱き民たちを恐怖に陥れた罪らしいが、俺も他の軍隊の奴らも、そんなのはうわべだけだと知っている。
王はたった一晩で最強と謳われていた王家を滅ぼしてしまった女を手に入れたかっただけなんだ。どういう方法で滅ぼしたのであれ、彼女が一人でやったという事実は揺らぎない。それを手に入れたとなれば、この国が大陸を手中に治めるのも時間の問題だ。
王はほくそ笑んだに違いない。昔から、この国は策略で戦いに勝ってきた。その際に大事なのは誰よりも早く良い駒を揃えること。
女は王にとって最高級の駒だった。
だが、女は王に仕えることを拒んだ。王や大臣たちがいくら説得しても首を縦に振らなかったらしい。
とうとう王は怒り狂って、三か月後を女の処刑日に決めた。日にちが迫ってくれば、女がこわがって命乞いをすると思っているのだろう。
今日で、女が牢屋にしては豪華すぎる客間に閉じ込められて一週間になる。だが、女はまだ弱音を一切吐かないようだと上官は言っていた。
俺は、その女に今から食事を届けに行くために、片手に盆を持って階段を上っている。
本来これは俺の仕事ではない。まだ二十代前半の俺は、城の警備が主な仕事だ。
では、この仕事は誰のものかというと、俺の直属の上官の仕事だったのだが、上官は娼婦に会いに行くために俺に仕事を押し付け、意気揚々と出かけて行ったというわけだ。
だが、上官に押し付けられた仕事は数えきれないくらいあるが、この仕事は、そこまで嫌ではなかった。
俺にも興味くらいはある。王家とそれに近しい人間を一晩で亡き者にしてしまった女に会ってみたいと思っていた。
階段を上り終え、一番の奥部屋まで歩く。この塔には、女と警備の者以外はいない。部屋の前まで行くと、扉にもたれかかっていた同僚が軽く手を上げた。
「ごくろうさん。食事を運びに来た」
「おお。あれ? それ、おまえの仕事だったか?」
「そういうことにしておいてくれ。これは大事な貸しになるからな」
俺が軽口を叩くと、同僚は笑って扉に掛けてあった南京錠を外した。
「『ブーゲントロワの魔女』が食事を食べ終わるまで、部屋から出ないでくれ。ないとは思うが女がなにかしてきたら、大声で呼ぶか、殺さない程度に痛めつけてやればいい」
『ブーゲントロワの魔女』とは女の異名だ。ブーゲントロワ家を滅ぼしたからという単純な忌み名が俺はあまり好きではなかった。
そもそも魔女などというが、女は別に魔法が使えたり、空が飛べたりするわけでもないという。だったら魔女ではないではないかと思うが、そんなこと他の奴らにはどうでもいいようだ。
「俺が一人で見張るのか?」
「ああ。最初は五人くらい付けてたんだが、必要ないと判断したらしい。怖いのか?」
「そんなわけないだろ」
「中で腰を抜かすなよ。ある意味であれは怖い」
同僚がにやりと笑いながら、扉を開ける。俺が入ると扉はすぐに閉まった。
部屋の中は質素なものだった。大きい部屋ではあるが、前に用意されていたであろう、続き部屋とは比べるべくもなく、一つの部屋に簡素なベッド、ソファ、テーブルがあるだけだ。
窓すらない部屋は真っ暗で、俺は少し目を眇めて一歩を踏み出す。すると、前方から声がかかった。
「食事ならいらないわ」
俺は声を聞いた途端、驚いてしばらく口が開けなかった。とてもそんな精神状況にはなれなかった。
「食事はいらないわ。もう出て行って」
声はもう一度、これ以上の侵入を拒絶するように告げた。しかし、俺の頭はその言葉を理解するよりも早く、驚きを疑問に変えて取るべき行動をはじき出していた。
「……おまえ、まだ子どもなのか?」
俺はおもわず俺の前にいるはずの『ブーゲントロワの魔女』に問うていた。
声があまりにも幼い。どんなに年かさに見積もっても、十三、四の少女の声だ。
「初めての人?」
「あ、ああ……今日はたまたまこの仕事をまわされたんだ」
俺が言葉を発した瞬間、ランプに灯りがともった。壁にかけてあるランプにまで火が付いたが、深く考える余裕もない。
俺は突然の眩しさでくらむ目を必死に開きながら、目の前に立っている少女を凝視した。
夜の闇よりも深い黒の髪は肩ほどで切り揃えていて、艶やかな光の粒子を纏っている。夜明けの海を思わせるような濃い青の丸い瞳は、まっすぐに俺に向けられていた。
青白い肌と痩せぎすの体は子どもそのもので、俺は息を呑む。
こんなか弱い少女が『ブーゲントロワの魔女』なのだろうか……。
白く薄い唇が開く。ゆったりとした動きで、少女の唇は音を震わせた。
「子どもと言われたのは初めて。わたしはもう十六歳よ」
「……まだ子どもだろう。俺より八つも年下……だから」
気が動転していたのか、訳の分からない返答をしてしまった。しかし気づいたところでもう遅い。とっくに言葉は彼女の耳に届いてしまっているだろう。
呆れられるだろうと思った矢先、軽やかな、いかにも少女らしい笑い声が聞こえてきた。
コロコロとリズムを刻むように彼女は笑った。先ほどの拒絶を含んだ声とは別人のようで、俺はしばらくそんな彼女を眺めていた。
笑いおさめたらしい彼女が、にこりと笑う。可愛かった。
「あなたは変わっているね、とよく言われない?」
「……なんで分かるんだ」
「だって変わってるもの。わたしがどうしてこの部屋にいるのか、知らないわけではないでしょう?」
彼女の顔が俺を試すような表情になる。身長が二十センチ以上違うから、彼女は俺の胸ほどまでの高さしかないが、どうしてか威圧感があった。濃青の瞳がちょうど灯りに反射して、瑠璃のように見える。
こんな宝石のような瞳が、世の中には存在するのかと驚いた。自分の銅色の目が惨めにさえなってくる。
俺は余計な考えを頭から追いやり、彼女の問いに答えた。
「知っている。ただ、それ以上でもそれ以下でもない」
そこで、俺は持っていた盆を彼女の腕に押し付けた。ずっと持っていたから、少し腕が痺れている。鍛錬不足だろうか。
「とにかく、十六なんてまだ子どもだ。子どもはよく食べてよく寝ろと、俺の母親は言っていたぞ」
だから、食べろという気持ちを込めて、盆を彼女の腕から、テーブルに移した。
彼女はしばらく大きな目をぱちくりさせていたが、やがてまた可笑しそうにコロコロと笑い、おとなしくソファに座って食事を始めた。
「わたし、にんじんとピーマンときのことオニオンと魚と肉はきらいなの。メニューを変えてほしいわ」
小さな溶けかけのシャーベットだけをきれいに食べた彼女が、まるで駄々っ子のように言うので、俺はぴしゃりと却下した。
「そんなに多いと、コックが泣くからだめだ」
だいたいそんなに好き嫌いばかりで、何を食べて生きてるんだ、だからこんなに痩せているのだと、頭が考えていると、彼女はじっとこちらを睨みつけてきた。
「痩せているのは元々よ。それから、野菜はきらいだけど果物はすきなの。果物って体にいいのよ。きっとあなたはお肉ばかり食べているんでしょうけど」
「……こ、心が読めるのか?」
「顔に出てたわ」
日頃から、どんな対応にも冷静に無表情でいろと言われているのに、そんなにさらりと顔に出ていると言われると傷つく。
俺はため息をつきながら、後でコックに果物を増やすように言っておくと言うと、彼女はじゃあ、今日だけは我慢してあげると言って野菜を頬張り始めた。
その姿は普通のどこにでもいるような少女だ。とても可愛らしくはあるが、そこにとてつもない魅力があるわけでもない。ましてや、残忍さなどちらりとも垣間見れない。
本当にこの少女が王家を滅ぼした女なのかと、俺は眉をしかめながら野菜を飲み込む彼女を息をひそめて見守った。
「ねぇ、この国はどんな国なの?」
ふいに彼女が問うてきた。俺はなんと答えていいのか分からなくて、数秒黙考し、ありきたりな答えを返した。
「小さな国だ。だが、戦争では負けたことがない。この大陸上で、他国に侵略されたことのない唯一の国だ。策略家の国王のおかげらしいが、俺はあまり詳しくない」
「じゃあ、あなたはどんな国だと思うの?」
さらに問うてくる彼女に、俺はまたしばらく時間を要してから答えた。
「うまくは言えないが……それなりに豊かな国だとは思う。今のところ、大した不満もない。だけど、ここの軍隊は人形のようだから、それだけが嫌だな」
「……どういう意味?」
「人形のように、感情を失くせと、俺たちは入隊した時に言われるんだ。兵は国王にとって一番扱いやすい駒でなければならないから、死を恐れず、生に執着せず、友や家族を忘れろって。だけど、それが本当に正しいとは、俺には思えないんだ」
一度だけ、俺は戦争を経験した。六年前の話だ。
ブーゲントロワ王家が統べるデイルッカ国が大陸全土を掌握しようと乗り出してきたのが発端で、最初は冷戦で終わるかと思われたが、意外にも大規模な戦争になった。
先輩たちは砲撃の中で、華々しく散っていった。そのことに恐れも誇りも抱かずに。
俺たちが亡骸を担ぎ上げようとすると、上官たちが叱責をとばした。遺体を見ている暇があるなら、戦線に繰り出せと怒鳴って。
俺はそれを聞いて、初めて恐怖を感じた。死よりもなによりも、全ての感情を捨ててしまった人間たちに。けれど、俺はここで生きていく以外に道はなかったから、そのまま先輩に背を向けて鉄砲を構えた。
結局、戦争はこの国が勝った。未だ戦火の爪痕は痛々しく各地に残ってはいるが、勝戦国としてデイルッカ国から多額の金を巻き上げたらしいから、まだマシだと言える。
けれど、本当にそれは喜んでいいことなのか、俺には分からなかった。
先輩の中には恋人があった人もいたし、養っていかなければいけない家族があった人もいた。残されたその人たちは、大切な人の遺体さえも見ることは出来ない。
爆弾で粉々になってしまった亡骸を前に、俺たちはなにも出来なかった。
「……どちらがいいと思う?」
突然、また問いかけてきた彼女に、俺は首を傾げつつ聞き返した。
「どちら?」
「そう。心を失くせと告げる国と心を失くすなと訴える国は、どちらがいいと思う?」
「さぁ……その国で生きてみないと分からないな。質問を質問で返して悪いが、おまえはどっちだと思ってるんだ?」
彼女は静かにコップの水を飲みほした。小さく首を振って、コップを抱えるその姿はとても弱々しい。
「分からない。でも心を保っていようとして壊れてしまうなら、最初から持っていない方が幸せなのかもしれないわ」
「そうか……」
俺はいつの間にか、彼女に見惚れていた。一つ一つの所作がとても優雅で時が止まっているような錯覚に陥る。ずっと眺めていたいような気持ちになった。
「ごちそうさま。そろそろ外に出ないと兵隊さんが来ると思うけど?」
彼女に指摘され、俺は我に返って慌てて時計を覗き込んだ。部屋に入ってから十分が経過していた。
俺は急いで盆を取り、一礼をしてくるりと踵を返す。すると、後ろから声をかけられた。
「変わり者のすてきな兵隊さん? あなたの名前は?」
そう言われて、初めてお互い名乗っていないことを思い出した。俺は振り返り、微笑む彼女に自分の名を告げた。
「俺はアイード。ツァイリッタ国の国王軍、第三部隊の三次官補佐だ」
「アイード。今日は楽しかったわ。ありがとう。果物の件忘れないでね。――――わたしの名はミーシャ。誰にも秘密よ?」
細い指を唇に当てて笑うミーシャに、俺は黙って礼をした。
部屋から出ると、同僚が驚いたような顔をして立っていた。食べたのか、と小声で聞いてくる。どうやら彼女は今まで食事をほとんど摂っていなかったらしい。
俺は、メニューを変えてもらうとだけ言って、立ち去ろうとしたが、その前に同僚に止められた。
自分の短く切り揃えてあるこげ茶の髪をぐしゃぐしゃにかき回されるのは、好きじゃないのだが、この男はそんなことを気にせず、俺の頭をいじって遊んだ。
「なぁ、アイード。腰抜かさなかったか?」
「抜かすわけない。ただ、驚いた。あんなに普通の少女だとは思わなかった」
「だからこそ、うすら寒いじゃないか。あの女はこわいよ」
今度は大げさに腕をさする同僚に俺は賛同できずに、軽く手を上げて、その場を後にした。
窓からは月もない夜空が城を覆っている。ミーシャの髪色の方がきれいだと、俺は思いながら、階段を下りて行った。
そして、これが俺と彼女の出会いとなった。