彼は毎朝海を見に行く。
あたしは少し早起きして、母さんに持たされたサンドイッチとお茶を籠に入れて、家を出た。
あたたかい春の風はどこからか飛んできた花びらと一緒に舞いながら、あたしの髪に触れていく。その先には大きな海がある。
港町と呼ばれるだけあって、ここは海が近い。でも船ばっかり並んでるから、港で海を拝むなんて出来ない。
そこであたしは彼に秘密の場所を教えた。
西にある森の奥には洞窟があって、その先は海に繋がっている。小さな洞窟だから、船なんてなくて、まさに秘密のスポットだった。
あたしは今まで誰にも教えたことがないその場所を彼に教えてあげた。
別に惚れたからとかじゃない。彼があまりにも海を見たそうにしていたからだ。
異国の人である彼は、この町に来た当初、あまりこの国の言葉を話せなかった。
だからあたしは彼を注意深く観察し、彼の気持ちがよく分かるようになってしまっただけ。
***
いつものように短い洞窟を抜けると、見慣れた背中があった。
「アカネー」
あたしは彼を呼んだ。本名ではない。あたしが付けた名前だ。彼は本当の名前を忘れたと言っているから、あたしはそれを信じてあげた。
新しい名前だよって言って付けたのは、あたしが大好きな空の色。彼の瞳の色だ。本当はあかなんとか色っていうらしいけど、それはおいといた。
名付け親っていうのは気分がいい。だって、その名前は特別なものに思えるから。
「レッタ。今日は早いんだな」
彼は穏やかな目であたしを振り向く。流暢な言葉は彼の努力の証。
あたしは青い海を背景にした彼を眺めて、にかっと笑う。
小さな赤と大きな青のコントラストは不思議な艶やかさをもっている。あたしはそれが好きだった。
「母さんが起きろってうるさいんだもん」
籠を振って怒るあたしを彼は声をたてずに笑う。
最近、こういう表情をよく見るようになった。ここに来た二年前は、全然笑う人じゃなかったけど、笑った顔は少年みたいで、彼によく似合う。
「あれ? なにそれ」
あたしは彼が手にしていたペンダントを指さして、そのまま隣に座り込んだ。彼は目を瞬かせてから、ああ、と言ってペンダントトップの円形のロケットをパチンと開けた。
「どうしてか……手に持っていたんだ」
ロケットの中には女の子が映っていた。とっても可愛くてきれいな子。お姫さまみたいなドレスを着て、その子は色のない写真の中、人形のように笑っていた。
「かわいい子だね。え? 恋人?」
彼は首を振った。そんなわけないだろって言って。でも笑った顔はすごく寂しそうだ。
「でも。俺は好きだったよ。誰よりも好きで――だけど誰よりも恨んでる」
「その二つは両立しないでしょ」
「――レッタは可愛いな」
「は? ばかにしてる? あたしもう十七だから」
「俺より九も年下なら子どもだ」
そう言って彼がなにかを思い出したみたいに目を細める。
あたしはこの目を知っている。もっと遠くの誰かを見てる目だ。彼は時々そういう目であたしの先に視線を合わせてる。たとえばあたしの黒い髪とかに。
「どうしてか分からないんだ…………あんなに笑ってくれてたのに。俺に絶望を突きつけて。泣いていたのに。独りにさせてしまった。俺は助けられて、彼女を助けられなかった」
彼の言っている意味はあたしにはよく分からない。
彼の住んでいた北西大陸でのことだっていうのはなんとなく分かる。今、向こうの大陸は内乱で荒れているし、二年前なんて、大きな国が滅んでしまって、こっちの東大陸に難民みたいに人がたくさんなだれ込んできた。
だからこの大陸の人たちは他国の人が来てもすんなり受け入れることにしてる。
でもあたしは知ってる。彼は難民の人みたいにここに助けを求めて逃げてきたわけじゃない。
「彼女がこの町にアカネを放り投げたの?」
「……そうかもしれないな。気づいた時には俺はここにいた」
彼は否定しない。だって、彼はあたしの目の前に突然、魔法みたいに現れたんだ。ぽんって感じで。
その時の彼は血まみれの剣を持ったまま、傷ついて泣きそうな子どもみたいな目をして突っ立っていたから、あたしは剣を森に隠して、黙って彼を連れて家に帰った。
母さんに新しい人が来たよって言って、そこからあたしと彼は一緒の家に住んでる。
彼はあたしから視線を逸らす。空より深い青の海をじぃっと見つめた。
「彼女さんはさ、きっとアカネに元気でいてほしかったんじゃない? それで、自分のこと忘れてほしくなかったんだよ」
あたしなら絶対恨まれるようなこと出来ないけど。だって嫌われるのはこわいから。
人形みたいな女の子は、どんな思いで彼を傷つけたんだろう。
「……そうだったのかもしれない…………」
俺も忘れたくない、と呟く。愛しそうに写真の子の輪郭を指でなぞった。
伸ばし始めた彼のこげ茶の前髪が横顔にかかっている。あたしは手をぎゅっと握った。
あたしはこの人に恋をしたりしない。
だってもうこの人の中にはあんなに大切な人がいるもん。つらい恋なんてまだしたくない。
……あたしはやっぱり子どもなのかもしれない。
「ほら、サンドイッチ食べよー。おなかすいた」
あたしは駄々っ子みたいに足をばたばたさせる。波がぱしゃりと跳ねて気持ちがよかった。ちょっと痛い気持ちも一緒に跳ねさせてくれればいい。
彼が笑って、ペンダントをポケットにしまう。
海は今日も青くて――とってもきれいだった。
【 END 】