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蜜色のアトリエ

 明かり取りの窓から日差しが入り部屋の中央を貫く。
 照らされた部屋は埃っぽいせいか日差しを通してなお、霞みがかって見えた。
 最も強く光があたる先で色砂が舞い踊る。軌跡を描いて埃と共にきらきらと散っていく様子はまるで光が粒子となり、この空間に現れたかのようだった。
 好き勝手に踊る砂を少女の指が捕える。細い指はキャンバスの上をなぞり、それはやがて一つの世界を形作る。
 俺はその世界が生まれる過程を、そして世界を創りだす少女を眺めていた。

 

 

***

 

 

 さほど広くない――むしろかぎりなく狭い部類の部屋の中央でシロワは床に膝を立て、キャンバスを覗き込みながら砂を操る。
 俺は彼女が背を向けている壁にもたれて座り込んでいた。二人の距離はさほど遠くない。せいぜい大人一人と半分。この部屋は狭いのだ。
 それでもなんとか快適にお互い過ごしていられるのは、単純に俺がそこまで体格のいい男ではないのと、シロワが小柄で華奢な十六歳の少女だからだろう。
 男二人だったとしたらこんな部屋にはとても耐えられないとひそかに思っている。
 薄暗い部屋はその狭さから整理整頓は徹底されている。所狭しとならんだ棚の中には今まで描いてきた絵、俺が作った百種類以上の色粉、大小さまざまなキャンバス、そして大量の砂がしまわれていた。
 しかし、シロワが居場所にしている中央付近だけは物が散乱している。
 砂はもちろんのこと、つぎはぎだらけの布やテープで補強されたボウルのようなパレット、刃こぼれをしているナイフ。彼女が今まで苦楽を共にしてきたありとあらゆる道具たちが日差しを浴びて転がっていた。
 髪を纏めているために露わになっているうなじから汗が流れ落ちる。白かった細い首は、苛烈な光で焼かれて赤くなっていた。
 時折、鬱陶しそうに拭るそぶりはみせるものの、この部屋には明かり取りの窓しかない。外の心地よい風すら拒絶する部屋はアトリエと呼ぶに相応しいのかもしれないが、暑さが和らぐことはなく、特有の空気がこの部屋にはこもっていた。
 魂をぶつけるような烈しい熱気と音のまるでまじらない静かなぬくもり。二つは相反するようでいて、しかし現実にここに共存している。
 俺が色粉を作り出すとその熱気はもっと荒々しくなるが、今のところ作るつもりはないため、これ以上熱気がこもることはないだろう。
 シロワは何度も何度もキャンバスに砂を放つ。その砂は新雪のように白い。わざわざ白く色を付けられた砂は細かな凹凸を付けながら、キャンバスの上に盛られていく。
 俺の背よりも高く、シロワの倍の幅はあるキャンバスは床に寝かせられ、砂に取り囲まれている。この大きなキャンバスはガラスで作られている。彼女のための特注品だ。
 彼女の絵はまっさらなガラス板をナイフで削ってそれぞれ微妙な差をつけながら溝を作り、出来た輪郭に砂を埋めていく方法で描かれる。もちろん溝を作らなかった場所にも砂を盛るが、その強弱の付け方は俺にはとても説明できない。
 この絵にとりかかったのは一週間前。溝の入れ方を少しでも間違えると絵の構図は狂ってしまうため、シロワはずっとナイフを慎重にガラスにあて、輪郭を描いていた。
がたっ、と音がした。目をやれば彼女が砂が盛られた器を自分の後ろに押しやっている。ようやく満足したらしい。
 俺はもたれていた壁から背を離し、立ち上がった。古い床板がぎしりと軋んで悲鳴をあげる。 この部屋で音を聞いたのはとても久しぶりな気がした。
「――クローク」
 彼女の柔らかな声が俺の名を転がす。俺は名を呼ばれると同時に彼女に色粉の入った箱を差し出した。日差しが照らすこの場所は思った以上に暑い。
 シロワの顔は逆光となり、瞳の色彩を見ることは叶わなかった。けれどその大きなたれ目がちの瞳の中には黒に近い褐色の髪をした目つきの悪い男がきちんと映っていた。
 彼女はありがと、とだけ言って俺から箱を受け取る。ぱちんと蓋を開ければ、中にはぎっしりと小さな瓶が入っていた。
 躊躇いなく彼女が出したのは濃い青。海の奥底深くから取り出した一滴のような瑠璃色。
パレットの上に深い海の色の粉が盛られていく。彼女は俺が持ってきた水差しを受け取り、慎重に青色の粉の上にかけた。
 水と混ざると色粉は途端に粘り気を持ち、彼女の指に絡みついた。彼女はさらに水をたす。やがて水に近くなってきた青色を布に浸し、その布でかたい砂を叩いた。
 白いキャンバスに青が飛び散る。その青が乾かぬうちに少女は新たに作り出した澄みきった空の青と雪雲の重い灰色を重ねていく。
 白はそのまま砂の色を使って。時折淡い黄色を小さな布を使って飛ばしながら、彼女は空を完成させていく。
 布をたたんで細かく色を散布させてるかと思えば、大胆に広げて直接砂の上にもみ込むように着色をする。それを繰り返していくうちに白くぼやけていた世界が徐々に生命を宿していく。
まるで奇跡のようだといつも思う。
 色のない世界を色づけるとすべてが動き出す。色のない世界はとても希薄でそこに在るのかも分からなくなってくるのに、彼女はそれを決して零さずすべてに色をつけていく。
 シロワは俺の視線など意に介さずひたすら絵を描く。
 大地は雀の尾羽と同じ茶と赤銅のような暗い橙を混ぜ合わせた色で全体を塗り、乾いてから薄い金色を光の道しるべのように引く。
 人の肌には血の赤をごく薄く入れ、その上から温かい黄色、艶のある桃色とほんの少しの紅茶色。
 滑らかな黒髪を作るために淡い灰色から徐々に濃い灰色を重ねていき、その上からさらに何段階もの黒で描く。
 彼女は筆を使わない。ゆえに細い線を引くとなると、自らの指を使う。
 ガラスの溝に隠れていた欠片が突き刺さり、細い指はいつでも傷だらけだ。
 けれど彼女は決してやめない。直接自分の手で線をなぞらなければ、本当に描きたい線が分からなくなると言っていた。
 俺にはその性とも呼べる気質がとても理解出来ない。
 色粉を作る時、植物を一本一本わざわざ手でこして色を作る人間もいるが、俺は絶対そんなことは出来ない。道具でこされた色の方が均一だから。ムラがあればそれは色粉として成立しない。
 彼女の絵だって完成しないのだ。
 色のない世界なんて存在しない。たとえ視覚が閉ざされていても、瞼の裏には白か黒、あるいはもっと違う色の世界がある。
 だからこそ彼女は世界を描き続け、俺は世界にある色を作り続ける。
 まるで希うように。

 

 

***

 

 

 陽がすっかり落ちて手元のランプだけでは暗く、壁にかけてあるものにも火を灯そうかと考えていた頃、シロワはようやく手を止めた。
 座り込んでいた俺は再び腰をあげて、彼女に近づいた。夜になり、日差しの熱は去ったというのに、部屋の中にはいまだ熱気があった。
 近づくと色粉独特のツンとした匂いが鼻をくすぐる。この匂いは嫌いじゃない。
「出来たのか」
 ゆっくり呼吸を繰り返していたシロワが振り返る。ランプに照らされた顔は疲れていたが、すっきりとした表情を宿していた。
「うん。出来た。もう砂もちゃんと乾いたから、ひっくり返しても大丈夫だと思う」
 俺は自分のランプを床に置き、慎重にキャンバスをひっくり返して壁に立てかけた。ガラス板は砂の重みでだいぶずっしりとしていたが、ひっくり返さなければ彼女の本当に描いたものを見ることは出来ない。
 シロワが差し出した一番大きなランプを掲げる。すると描かれた世界が現れた。
 それは空の下でただひたすら前を睨みつけている女の絵だった。
 雨上がりのまだ暗い空の下、所々に光が射す――しかし緑もなにもない大地に立って、女は毅然と前を見据えている。
 艶はあるが、無造作に伸ばされた長い黒髪も所々破れている漆黒のドレスもずぶ濡れだ。普通に考えれば目もあてられない。
 けれど女はぴんと背筋を伸ばし、まったく濡れていない琥珀の瞳をひたと前へ向けていた。吊りがちな瞳はよく磨かれた宝石のように輝いており、見た者すべてを惹きつけ、それと同時に射抜くような怒気を滲ませている。
 彼女の片手には細身の剣がしっかりと握られていた。雨で流されたはずの剣には赤黒いものがこびりついている。
 血生臭いと言われそうな荒廃した大地、閉塞感を感じさせる暗い空、絵姿には決して相応しくない汚れた女。
 一つ一つは息を詰めるほど残酷なものなのに、すべてを目に映せばどうしてか胸中に光明が射す。
 目を惹くのは圧倒させる怒りと決意を秘めた姿。
 戦女神。そう呼ばれるに相応しい女だったのだろうと分かる。
「これがはじまりだったんだと思う。彼女を戦女神にした瞬間」
 シロワがぽつりと呟いて、自分が描き出した世界を見上げる。夜の月がぼんやりと窓に灯り、それがより一層この絵の色彩を際立たせていた。
「この日、彼女は戦うと決めたの。だから戦い続けた」
「そうやって戦女神が言ったのか?」
 戦女神が降臨する前、この国は随分荒れ果てていたと聞く。すっかり豊かで平穏になったのは彼女の功績だ。
 その功績をひけらかすこともなく、輝かしい宮殿を離れ田舎の屋敷で暮らしている今はもう名もなき老女となった女神にシロワが絵を頼まれたのは一カ月前だった。
 幾度となく彼女は離宮に足を運んでいたので、その時になにか聞いたのかもしれない。
 シロワは俺の問いに首をことりと傾けた。ところどころ赤くなっている肌の上で汗が滑り、床へ落ちていくのを俺は無意識に目で追う。
 シロワは俺の視線が下へ向いたのを気にすることなく言葉を紡いだ。
「直接は……聞いてないけど、なんとなく感じたの。ずっとずっと泣かないで立ってたんじゃないかなって」
 誰もいないところでも泣かないのは自分が見ているからだって言ってたの。だから泣き方を忘れてしまったのなんて笑ってたんだよ。でもね、ほんとうは泣きたかったんじゃないかなって。雨と一緒に流せたらよかったって思ってる気がしたの。だから今でもこの日を思い返して苦しくなってしまうんじゃないかな。
 囁くような声音でこういうことを語りだす彼女は驚くほど大人びている。まだ十六年しか生きていないのに、その瞳はとても苦しげで、けれど母のような慈愛を宿す。
 ――だから彼女が描きだす世界はいつでも俺の胸をかき乱すのかもしれない。
 俺はランプを絵から離し、彼女に目線を合わせるべく腰をおろした。
 ランプでシロワを照らせば、一日中見ることの叶わなかった彼女の紫の瞳が俺の目に映る。
 青みが強い紫。黄昏と夜闇が混ざる空に似ている。吸い込まれそうななんて表現は陳腐だが、この瞳に映る世界はきっとすべて真実なのだろうと思う。
「戦女神に頼まれた絵っていうのは『始まりの日』か?」
 彼女は沈みがちの感情を断ち切るように、にこりと笑った。
「ううん。『わたしのすべて』だよ。だからすべてが始まった日の絵を描いたの」
 俺はあらためて絵を見上げる。絵の中の女は強く、けれど怒りの中に哀しみを押し殺していた。
 この絵を見たら泣き方を忘れた戦女神も泣くことが出来るのだろうか。けれどすぐにそれを俺が知ることはないだろうと思い、疑問を消し去った。
 シロワは絵から視線をはずし、置かれていたパレットのふちを指でなぞった。
「クロークの作る色粉はいつもとってもきれい。特にこの瑠璃色はお気に入りなの。クロークの目と同じ色。絶対雨上がりの空に使おうと思ってた」
 ずいぶんと少なくなった瑠璃色の粉が入る瓶を振って、彼女は笑う。その顔はうってかわってあどけなく、彼女を少女然とさせていた。
 反射的に眉間にしわを寄せた俺の表情は月が雲に隠れたことによって、シロワには見えなかったに違いない。その隙に俺はランプを置いて、シロワに手を伸ばした。
「俺はどんな色よりもおまえのこの色を手に入れたいんだ」
 片手でシロワの纏められていた髪に刺さっているピンを抜き取る。眩い金色が少女の背にするりと流れ、床に広がった。
 金色というありきたりな言葉では表現出来ない輝かしい色が視界を覆い尽くす。
 今まで見たどんな人間よりも鮮やかな色は、太陽の光などよりずっと高貴だ。
 なんの色も混ざらない濃い黄金色。けれど水のように透明さが際立つ。掌を滑っていくくせにとろりと残る。まるで糖蜜のような。
 この色をシロワと出会って三年が過ぎても俺はいまだに作れていない。
 穏やかな輝きを放つ髪を一房指に絡ませ弄ぶ。雲の隙間から出てきた月光が照らすと、金色は濃さを増した。
 くるりくるりと癖をつくる髪は指に纏わりつく。
 どうしたらこの色を作れるのか分からない。まさか自分に作れない色があるなんて知らなかった愚かな頃の俺はこの色を嫌ったが――今の俺はこの色に焦がれている。
「そう? わたしはこっちの方が描けない」
 弄ばれている自分の髪を見下ろしていたシロワはおもむろに俺の唇を指さして、面映ゆそうに笑った。髪をおろしたせいで雰囲気が幼くなったにも関わらず、汗で濡れた眦は艶やかで彼女の雰囲気をいつもとは違うものにしていた。
 ――彼女は知らないのだろう。
 俺が時々自分の色粉と彼女の描く絵を比較して、色粉をすべて水に流してしまいたいと思っていることも、密やかに獣の目で彼女を見ていることも、この金色の髪を切ってしまいたいという衝動に駆られていることも。
「どうしたってこんなふっくりして、でもすごく冷たそうで、笑うととんでもなくきれいな弧を描くくちびるを描けない」
 どうしてそんなくちびるを持ってるの?
 ふいに伸ばされた赤色の滲む指を俺は捕まえて引き寄せた。
 この指は俺の作る色に生命を与えてくれる。それがとても嬉しくて、けれど同時に悔しかった。彼女の描くものを塗りつぶしてしまうような色を作りたい。いや、最も輝く色を作りたい。
 俺は笑った。決して交じり合えない感情はどのような色をしているのだろう。
「……クローク?」
 不思議そうに自分の名を呼ぶ少女のとろけそうな髪を撫ぜるといつも同じ想いが浮かぶ。
 ――いずれにしても自分には彼女を泣かせるようなことは出来ないのだ。
「見て分からないなら試せばいい」
 シロワの耳朶を震わせるように囁いて、引き寄せた彼女の小さな唇に自分のそれを合わせる。
 数秒後、彼女は自分の状況を察したのか、熱で火照っていた顔をみるみるうちにもっと激しく赤に染める。
 間近で見開かれている淡い紫紺の瞳が怒ったように俺を睨みつけていたが、やがてゆっくりと閉ざされた。

 そうして俺と彼女のアトリエにもう一つ熱が生まれた。

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