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陽炎エンヴィー

 まるで熱々の鉄板に乗せられたステーキだ。そろそろ地球が焦げる。
 咲花の目に夏の日差しはそう映ったのだった。
 アスファルトから立ち上る熱が白いセーラー服の隙間から入り込む。咲花の細胞は暑さに悲鳴をあげて涙を――正確には汗――流している。
 出来る限り日陰を歩きたいとは思っているが、通学路となっている住宅街は見晴らしばかりが良く、日を遮るものなど何一つありはしなかった。
 せめてタオルの一つでも持って来ればよかったとため息を一つ。
 小さな笑い声が降ってきたのは、その時だった。
『暑いのが嫌なら遅刻しなきゃいいのに』
「だって朝早いと出てこないじゃん」
『わたしは陽炎だもの』
「夕果でしょう。自分でそう名乗ったじゃない」
『あら、そうだったかしらねぇ』
 素知らぬ顔をよそおう幻の少女に、咲花は呆れ半分のため息をこぼした。
 自らを陽炎だと言う夕果と出会ったのは、二年前の夏のことだ。

 

 

 その日はたまたま寝坊をしてしまい、今日のように殺人的な日差しの下を必死に走っていた時、彼女は囁きに似た笑い声を伴って現れた。
『こんにちは。咲花』
 咲花とは対照的な長い黒髪、文字通り透きとおった肌をした少女は、中学一年生だった咲花よりも三つほど年上に見えた。糊のきいたブレザーにもプリーツスカートにも皺一つなくまるで入学式の新入生のようだと思った。
 実際それは間違っていない。彼女は高校入学の当日に、おそらく死んでしまったのだと後から聞かされた。本人が言っているのだから間違いはないのだろう。ただ夕果のおぼろげな記憶力というものを信じていいのなら。
「だれ?」
 咲花は生前の彼女にもちろん会ったことはない。
 けれど幽霊にしては足もちゃんとあり、呪われそうな気配もなかった。なにより自分の名を知る彼女に興味があった。
 彼女は咲花の興味本位な問いかけに自分の名前を答えた。
『夕日の果実で夕果。そう呼んで』
「どうしてあたしの名前を知ってるの?」
『あなたの名前だけは知っているの』
 どうやらこの少女は人の質問に応じることが苦手らしい、とだけ分かった。
 よろしくね、と言って差し出された手につい自分の手を近づけてしまい、大火傷を負ったのはそのすぐ後のことだった。

 あの日から、咲花はこの不可思議な幻の少女と会う為に、夏の朝だけ遅刻をするようになった。

 あれから二年が経った。右手の火傷は今も赤く痕を残しているが、十三歳だった咲花は十五歳になり、身長も十センチ以上伸びた。夕果だけが何一つ変わらずにここにいる。
「ねぇあたし三年生になったよ」
『そうね』
「来年の夏はもうここを通らない」
『うん』
 夕果の言葉には戸惑いの欠片もなかった。咲花は迷い、けれど結局は問いかける。
 いつの間にか口が渇いていた。
「夕果はどうするの?」
『……分からないわ。死んだことと名前以外はもう覚えてないの。なあんにも』
 咲花と話していれば思い出すかもしれないと思ったんだけどね? と冗談めかして笑うのは寂しさからか不安からか――はたまた全く違う感情からなのか。咲花には分からない。
「また違う場所でも会える?」
『それはあなたが決めること。わたしはただの陽炎だから』
「その答え方はずるいよ」
『ずるいのはいつだって生き物の方よ』
 怨嗟にも似たとても鋭い声音だった。咲花は肩を揺らし、夕果の顔を凝視する。
 いつも笑顔をたやさない彼女から表情が消えていた。
「夕果」
『ずるいのは咲花。あなたよ』
 その瞬間、咲花のまなうらには赤い血だまりが浮かんだ。
 暑い夏の日差し。その下でぬらりと光る鮮血の海と眠る少女を、見た。
 夕果が、否、少女の姿をした陽炎が、微笑む。
 透きとおった顔に暗い影を落とした笑みに、流れていた汗が一気に冷える。
 彼女は何もかもを知っているのかもしれない。覚えていないなんて、実は嘘で。本当は――。
『今日は特に暑いわ。気をつけていってらっしゃい』
 気づけば、夕果は笑顔を取り戻していた。
 日だまりに守られて咲いた花を慈しむように、咲花の頬に彼女の手が触れた。優しげな手はけれども炎と同じ熱さを持ち、咲花の頬を容赦なく焼く。
「いたい」
『あら。ごめんね?』
 ちっとも悪びれた様子もない軽い口調に呆れつつも、咲花は縋るようにいつもと同じ言葉を口にしていた。
「また……明日ね」
『ふふ、咲花は本当に頑固ねぇ』
 最後にそれだけ言うと、夕果の姿が大きく歪んだ。次に陽炎が揺れた時にはもう少女の姿はどこにもなかった。
 後に残るのは見晴らしの良い住宅街と、夏の日差しに焼かれ続けるアスファルト、その上に呆然と突っ立っている咲花だけだった。
 咲花は息を一つついて、すっかり熱を溜めこんでいる足先を前へ向けた。
 彼女に言いたいことが山ほどあるのに、一つとしてまともに出てこない。まだ続けたいのかもしれない。うだるような暑さの中で、凛と佇む少女との一時を。
 断罪の光が頭頂を焼く。さながら神の裁きのようだ。
 そんなことをしなくても、咲花は己の罪を知っている。
 夕果。あたしはあなたの体が宙を舞って、そして地に叩きつけられたことも、骨がばらばらに砕けた体がとっくに焼かれて灰になったことも知っている。
 不要な記憶から脱皮したあなたの魂はあっさりと使い物にならない体を捨て、同様に無垢できれいな体に宿ったことも。すべて、知っている。
 でも教えてはあげない。ずるいのはあなたの方だから。
「あたしは高校もセーラーがいいな」
 その方が透けた肌には似合うと思う。見ている側も暑苦しいとは思わないだろう。
 咲花はいつの間にか息を弾ませて、長い道を走っていた。
 自分のみだれた息遣いが、まだ生き物であるのだということを教えてくれる。だから暴力的なまでのこの衝動は、仕方ないものなのだ。
 人は誰しも自分が持っていないものを欲しがる。
 次の夏、咲花はもう夕果には会わない。
 彼女は重たい記憶と微睡みの中でほんの少し眠り、そしていつかの夏に少女に出会うのだ。おそらく自分とよく似た、夏の火照りを厭いながらもその熱に焦がれている少女と。
 もし覚えていたら、手を差し出すことはやめてあげよう。きっと陽炎になったあたしの手にもこの痕は残ってしまうだろうから。

 道の先で陽炎が揺れている。まるで手招いているように。
 咲花は微笑み、陽炎に向かってまっすぐ飛びこんでいった。
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