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見かけ倒しプール

 八月の昼下がり。セミが勢いよく大合唱をしている。誰かが岩にしみいるとか言ってたけど、岩だけじゃすまないと思う。コンクリートも空もあたしの耳も全部がセミの声にやられそう。しかも全然静かじゃない。
 本当は今日、裕美たちとカラオケだったのになあ。そうしたら鼓膜をセミに占拠されることもなかった。
 高校というのはめんどくさい。中学みたいに成績表が悲しいことになっても、先生が「来年はがんばれよ」とか言って次の学年にあげてくれたりしないのだ。
 まず、追試がある。その次に補講と再追試。そして学年の最後には成績認定試験。
 期末テストが終わると連日、補講と試験との戦い。かれこれ二年になるかな。
 先生から逃げ回っても捕まえられて、個人指導室に連行。毎回「次は試験前も補講してやるから」なんて言われる。
 今の担任なんてクラス替えの日に「今年こそは赤点減らしましょうね」とか言ってきて、あたしは恥ずかしくてたまらなかった。
 別に髪を染めているわけでも派手な化粧をしているわけでもない。もちろんお酒も煙草もやっていないし、免許だって持ってないから夜中にバイクで走りだすようなこともない。あたしはいたって健全な女子高生だ。
「……四教科赤点くらい許してよ。まったくあの頭かたいじじい」
「さっさと掃除しろ、サボり女子」
 モップの柄に顎をくっつけてたあたしは、背後から聞こえたお厳しい言葉に眉根を寄せた。
「だったら手伝ったらどう。クラス委員なんだからさ」
 ビーサンからはみ出た小指が日差しが照りつけるプールサイドの床にあたって、あたしは慌てて小指を引っ込めた。
 そう、プールサイド。プール自体は嫌いじゃないけど、この場所は地獄だ。暑い。
 普通水泳部が掃除するここをあたしは特別補講をさぼった罰として掃除させられている。
 監視は、いっつもうるさい学年主任のじじ……おじいちゃん先生でも担任のおばちゃん先生でもない。
「俺は監視役だ。たまたま進路の事で学校に来ていただけで、掃除をする義務も義理もない、以上」
 クラス委員の雅一(みやいち)は偉そうに、スタート台の上で足を組み替え、持っている文庫本から目を逸らさずに言い放つ。じじいより偉そうだ。
 黒の細いフレーム眼鏡が、すごく嫌味っぽい。
 なんだあの態度。クラスメイトとは思えない。あたしは無性にイライラして、モップを力任せに動かす。消毒された水特有の匂いが鼻にツンとした。
「……その本買ったのあたしだし」
「お前がバイトに遅れるって喚くから、こっそり裏門から逃がしてやったのは俺だ」
「…………前もでかい本二冊も買わせたし。クラス委員のくせに」
「二年の文化祭でお前のクラスの出し物がきもだめしになりそうだった時、半べそかいてたから、わざとうちのクラスもきもだめしで希望出して、お前のクラスを模擬店にしてやったのは俺だ」
「うるっさい! そんなのもう一年も前だよ! だいたい半べそかいてないし!」
「そういえば、これ表紙は普通だが、ホラージャンルなんだ。朗読してみるか」
「……っ! したらプール突き落すから!」
 あたしが振り向くと、雅一はおとなしく唇を引き結んで黙った。退屈そうに文庫本をぺらぺら捲る指先が、小さく動く。さっさとやれということだ。
 この毒舌メガネ。心の奥でぶつぶつ文句を言いながら、結局一人で掃除を続ける。
 別に汚れてる箇所が見当たらない場所を、掃除するのは一番骨が折れる。
 こめかみから汗がつたって、首に到達する。すごく気持ち悪かった。
 暑い。とにかく暑い。そしてセミうるさい。
 今太陽見たら溶かされそうだなあ。空の頂点にある時、太陽は真っ白でとても眩しいとかなんとか、中学の遠足のプラネタリウムで聞いたような。
 熱ばかりがこもる体は誘惑に弱い。ちらりとプールに視線を移すと、真っ青な水が揺らめいて光を映しこんでいた。
 きらきらの青がいっぱい弾ける。
 きれい。水が青くないことくらい知ってるけど、プールの水は時々本当に青なんじゃないかって思う。
 少しだけ恩恵をもらいたくて、プールの中に片足だけ入れる。けれど、太陽の光に照らされてるからか、別に冷たくはなかった。
 見かけ倒しってやつ。まるであたしみたいだ。見た目だけは真面目なのに落ちこぼれ、ちぐはぐなあたしとおんなじ。
 それでも水に包まれている感覚は気持ちよくて、しばらく足をぷらぷらさせていた。
 ズルっと支えの片足が滑る。安い赤のビーサンは簡単に脱げて、あたしは制服のままプールに落ちた――正確に言うと頭から突っ込んだ。
 セミの声も、太陽の光も、全部が泡になったみたいだった。ぶくぶくと水面に上がっていく空気の音以外はなにもしない。人の気配すらない。
 もう酸素を吐きだしてしまって苦しいのに、とても心地よくて。出たくなかった。
 このままでもいいかもしれない。そう思ったら、ふと、涙が出そうになった。
 だけど、いよいよ苦しくなってきた瞬間、いきなり脇の下を抱えられて引き上げられた。
「おい! なんでさっさと上がってこないんだ」
「え、あ……ごめん」
 声を出した後、苦しくなって咳をすると雅一はさっさとあたしを解放する。
 雅一も制服のまま飛び込んでしまったらしく、いつもしわ一つないズボンがプールに浸かっていた。
「もう掃除はいい。先生には言っておくからさっさと更衣室にいっ――?!」
 さっさと元の場所に戻ろうとしていた雅一が、水中に消えた。正確には足を滑らせて水中に突っ込んだ。あたしみたいに、しばらく水中にいるという考えはないらしく、すぐさまさばぁっと上がってきたけど。
 かなり苦しそうに咳をして、落ちてしまった眼鏡を探してる。雅一はかなり目が悪いから眼鏡は必需品だ。本人は生命線と呼んでいる。
 あたしは持ち主のピンチに素知らぬ顔して浮いてる眼鏡を取って、渡した。
「はい、眼鏡」
 彼はちょっと気まずげに目を逸らした。おもわず吹きだす。だめだ、我慢できない。
「ぷっ、プールの中で滑る人初めて見た」
「うるさい。今さっき頭から突っ込んだお前には笑われたくない」
「いや、絶対あたしよりみやの方がやばい。くふふ、思い出しただけで笑える……!」
 ぶすっとふて腐れる顔とさっきの見事に滑った姿が重なって、あたしはお腹を抱えて笑ってしまった。
 別の意味で涙が出てくる。痛いのに楽しくて。セミの声なんかよりずっとずっと、空まで埋め尽くした。
「はぁ、気持ちいい。久しぶりにこんな笑った」
 ようやく笑いおさめたあたしは、仏頂面で見下ろす雅一を見上げた。
「気は済んだか。ばか」
 濡れた髪をぐしゃぐしゃと乱して、彼は水気を飛ばそうとしているらしい。半分以上は照れ隠しだろうけど。
「うん。すっきりした。プールはあんまり冷たくないけど」
「室内じゃないから当たり前だろ。それより早く更衣室行け」
 そう言い残して、さっさと(でもかなり慎重に)スタート台の方に歩いていった。
 水を含んだ服をとても重いから、こんな時は長いズボンよりスカートの方が絶対楽。あたしもじゃぶじゃぶ重い水に歯向かいながらプールサイドに上がろうとした。
「万理子」
 突然、名前を呼ばれて肩を跳ねさせる。雅一があたしを名前で呼ぶのは本当に久しぶりだった。
「教室内で避けるのやめろ。何度も言わせるな」
 スタート台のところに手をかけたまま、雅一は止まっている。あたしの返事を待っているのが分かった。
 水の中で酸素を吐き出してしまった時より、はるかに息がしづらい。体の半分は水に浸かっているくせに、唇も皮膚もカサカサに乾いていた。
 濡れた雅一の髪は艶やかな黒色で、その一房からぽたりぽたりと雫が落ちる様が、あたしをもっと呼吸困難にする。彼は水よりも容易くあたしから空気を奪う。
 いつの間にか、セミの声が止んでいた。
 あたしは干上がった喉を不器用に嗄らして、ごめんって言った。
「……分かってるけど、うまくいかない」
 必死に勉強して、合格した高校は不釣り合いなあたしを見逃したりはしない。学年があがるごとに理解出来ないことが増えた。
 中学の同級生で、一番の友人だった雅一は学年トップの秀才になってしまった。あたしは肩を並べるのが恥ずかしくて、彼を避けるようになった。
 それ以来、突拍子もなく涙が出るびょうきがおさまらない。
 雅一はなにも言わなかった。前に似たようなこと言われて、大ゲンカしたことを思い出してるのかもしれない。
 それでもずっとあたしを助けてくれる雅一に。届くようにあたしは言った。
「あと半年だけ、待ってて」

 

 生ぬるい青のプールにしわくちゃの文庫本が浮かんでいた。
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