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精霊術師のたまごと息吹

 小さな若葉たちがそよかぜに揺られ、さらさらと音を立てた。自由なそよかぜはそのまま、千風の首筋をすり抜けて空へと昇っていく。ふわりと風に踊らされた亜麻色の髪が広がると、柔らかい陽光に透けて足元の草花に光を落とした。
 今が寒い冬なのだと忘れてしまいそうなほど暖かい、『春の森』と呼ばれるここを千風はどの場所よりも愛している。
 けれど、どれだけそよかぜが悪戯に彼女の頬を撫ぜていっても、千風の表情は硬いまま、ただその苗色の瞳をまっすぐ前にやっていた。
 彼女の視線の先には大樹にもたれかかり、座っている男が一人。
 彼は鋭い視線など意に介さず双眸を閉じている。今まで幾度となくこの場所にいるのを見かけていたが、珍しく眠っているようだ。
 男は見た目だけは千風とさほど変わらない普通の青年だが、持つ色彩と容姿は特異だった。
 白一色の裾の長い服から覗くすらりと伸びた肢体は、どこにも無駄な線がなく、どんな芸術家でさえこんな完璧な線は作れないだろうと思わせた。透けてしまいそうな程真っ白な肌と同じ白磁の髪は首筋にかかり、そよかぜが寄っても決して靡かず彫像のように時を止めている。
 そして今は閉ざされた瞼の下にある――とてもとてもきれいな緑。その瞳は千風にとって少しこわいものでもある。
 眠っていると霞むような儚さが彼を覆い、触れることすら叶わぬ幻のようだ。
 男に見惚れてしまいそうになる自分を叱咤して、千風はゆっくりと口を開いた。
「今日こそ契約してもらうんだからね。あたしと」
 千風の言葉を受けて、男がようやく瞼をあけた。ぱっとそこに花開くような鮮烈な瞳は、葉が作った影の中にいてもよく分かる。千風とは色合いの違う澄みきった若草の瞳が煩わしそうに眇められた。その途端、彼の彫像のような容貌が歪む。
 けれど、目の前にいるのが千風だと理解した瞬間、男は瞳から険を消し、唇をつり上げて笑った。葉の合間から零れる光に照らされた白磁の髪が眩しい。千風はわずかに目を細めた。
『契約してほしければ、俺の問いにすべて答える事だ。もう何回も言ってるはずだが?』
 男の唇はわずかにしか動いていないのに、その声は耳のすぐ側で聞こえた。儚く美しい外見とは裏腹の低い声に、千風はぎゅっと拳を握りしめる。
 精霊と対峙する時は向こうに引きずられてはいけない。それはもう何度も教師たちに言われた言葉だ。忘れるはずがない。
 精霊たちは人間と契約しなくてもある程度の力を行使することは出来るのだから、人間など精霊に敵うわけはない。契約する時は慎重に。精霊の弱点をよく見極めろと言い聞かせられた。
 でも、千風は目の前の男――息吹と呼ばれる精霊の弱点など知らない。知らないけれど負けるつもりはない。千風は息吹の瞳に視線を合わせて対峙した。
「……分かってる」
 緊張を吹っ切るように息を吐くと、見計らったように息吹が最初の問いを口にした。
『五問正解したら、契約してやる。まず一つ目。精霊術師の役割はどのようなものだ?』
「精霊術師は精霊と契約をし、自らの真力(しんりょく)を精霊に行使させることで現世に影響を及ぼす存在。魔呪(まじゅ)たちと主従契約を結び、自分の中に魔呪を取り込む魔導術師とは違い、生きているものたちへ内側から力を及ぼすことは出来ない。世界を構成し、常に外側から人を守る、それが精霊術師の役割」
 まるで教科書に書いてある解答のようにすらすらと答えれば、息吹は苦い顔をして正解を告げた。答えている側としては、そんなに苦い顔をしなくてもと思ったが、口には出さない。頭の中では暗記してきた文章がぐるぐると回っていて、それどころではないのだ。
 短期勝負なのは分かりきっている。千風は自分の記憶力に期待していなかった。
『それなら、精霊術師の力の行使方法を言え』
「精霊と契約しておいて、その精霊を喚び出し行使するか、その場に媒体があれば精霊の属性と名を呼び一時的に力を貸してもらう。これは契約じゃないから、精霊次第で貸してくれない時もある」
『――正解だ。次。精霊との契約方法は?』
「個人差があるけれど、第一契約の『命約』の場合は直接精霊と会うか、その精霊が好む媒体から召喚をし、自分の血を差し出して、精霊が呑めば契約完了。高位の精霊になれば血と共に供物を捧げる場合もあり。第二契約以降は血じゃなくて、自分の力を……えっと、あ、そうそう、自分の力を指輪とか腕輪に込めて、それを嵌めてもらう。ただし、どんなに望んでもすでに他の誰かと第一契約を結んでいる精霊とは力を借りることだけしか出来なくて、どんな契約も交わせない」
 千風は言い切って一息ついた。どんな森よりも心地よい場所のはずなのに、額には汗が滲んで気持ち悪い。息吹はそんな千風の気持ちなど素知らぬ顔で、つまらなさそうに側の花をいじりながら次の質問を口にした。
『俺の存在定義を答えろ』
「あなたは息吹。季節の巡りと生命の芽吹きを司る精霊。枯れた花や汚れた水を元に戻すことも出来るし、その逆で消滅させてしまうことも出来る」
 一瞬舌打ちをした息吹はそれでも律儀に正解を告げた。
 精霊は嘘をつかないから、次が最後の問いだ。いつもいつも筆記試験のような意地の悪い問いを繰り返すのが彼だが、もうだいたいのパターンは把握している。なんせ十八回目の勝負である。
 今日こそ契約してみせる。
『じゃあ――精霊が夜になると眠くなり力が落ちるのは?』
 息吹が問いを言い終えた時、千風の表情は会心の笑みを浮かべていた。自信に満ちた表情で即座に答える。
「夜は月が空に昇ることで魔力が満ち、霊力が欠ける。よって精霊は本来の力を発揮できず眠くなってしまう――どう? 正解でしょ!」
 千風が答えた途端、息吹は若草色の瞳を輝かせた。とてもいじわるく。嘲りにも似た微笑を浮かべた彼は残酷に、その笑みに青ざめている千風に言い放った。
『残念だったな。はずれだ。契約はしない』
 一際大きい新風が二人の間をすり抜ける。暖かな『春の森』の風はどんなものでも心地よい。けれど、千風はその風を掻き消すような声で叫んでいた。
「そんなばかなっ!」
『これが現実だ。じゃあな』
 息吹が手を振ったが最後、千風の体を突風が襲った。彼女が目を閉じている間に目の前にいたはずの美しい精霊は忽然と姿を消してしまっている。抵抗したくとも精霊に敵うわけもない。
 千風は一人緑豊かな森の中に置き去りにされた。
「まただめだったなんて……」
 落胆と共に零れたため息は、新たに吹いた優しい風によって空へと吸い込まれていった。

 

 

***

 

 

 精霊術師と魔導術師の育成を行っているただ一つの機関『天子神術学園』は、二十年前に近隣諸国と合併を果たし、大国と言われるようになったリストニア国の大半を覆い尽くす浮遊建築の由緒正しき学園である。
 創設されたのは五百年以上前に遡り、創設者は未だに伝説として語り継がれている二人の術師だ。
 一人はそれまで決して相容れなかった自然界を司る精霊王と契約をし、精霊術師として人々に讃えられ、もう一人は精神界で暴挙を繰り返していた魔呪王を支配下に置き、魔導術師として世界中に名を馳せた。
 彼らは自分たちの志と確立した地位が後世にまで残り息づいていくことを強く望んだ。その最善の道として学園を創設するに至ったという。
 この学園の入学条件はただ一つ。神から授かりし真力をその身に宿していることだ。
 二つは決して両立出来るものではない故に、精霊術師を目指す者は精霊科、魔導術師を目指す者は魔導科にそれぞれ分かれて入学を果たす。
 学園内には精霊達が住処とする東西南北に分かれた『四季の森』と魔呪達の住処である『赤地(せきち)の城』が存在し、生徒達はその存在をより近くに感じる事が出来る。
 入学から卒業までの三年間で生徒たちが受ける授業は、精霊術師、魔導術師それぞれに必要な実技訓練、精霊や魔呪たちの歴史、知識と実にさまざまある。
 その中で自らの力を確固たるものとし、学園の格言である『理想をその手に』という言葉を受け継いでいく。

 かくして今日も学園に在籍している生徒たちは神から授かった力を持つ術師のたまごとして、自らの理想を手に入れるために勉学に励んでいる。

 

 

***

 

 

 千風は肩を落としながら、朝のざわついた教室の扉を開いた。がらりと横に開かれた扉のすぐ内側では数人の少女たちが輪を作りなにかを見ていたが、気にする元気もなかった。
 教室はそれとしてはかなり小さな部類だったが、十七人の生徒が入るには十分の大きさだった。
 まばらに配置された古い机と椅子は好き勝手な方向を向いており、このクラスの生徒があまり勉学に切羽詰っていないのだとよく分かる。
 いつもは教師たちがしっかり管理をしている快適な部屋のはずが、今日は冬の精霊である凩(こがらし)が窓から入ってきたのかおそろしく寒い。一面に続く窓を見やると、案の定一つの窓には隙間があった。しかも未だ放置されていることから、閉められないように悪戯したのだろうと分かる。
 『春の森』とはあまりに違う寒さに口の中でぶつぶつと文句を言い、両腕をさすりながら千風は自分の席に腰をおろした。
「おはよう、ちか。まただめだったの?」
 すぐに声をかけてきたのは、千風の隣の席に座っている親友の和泉だ。彼女は千風とは対照的な少女だった。
 長い亜麻色の髪を伸ばし放題の千風とは違い、和泉の木蘭色の髪はきちんと二つに結ばれており、唯一規則として決められている法衣でさえ千風は着ていないが、彼女は法衣だけでなくブラウスもスカートもすべて学園推奨のものを着用していた。
 けれど地味な印象はなく、清楚さが際立つ顔立ちをしている。白く丸みがある頬も可愛らしく、長身で痩せぎすの千風とは大違いである。
 そんな優等生な和泉は試験でも常にトップの秀才だった。筆記試験はいつもぎりぎり合格の自分がどうして仲良くなれたのかは千風自身にもよく分からない。
 窓に近いためか、頬を桃色に染めている彼女は心配そうに千風の返答を待っている。千風が頷くと、彼女は人より垂れている紺青の瞳に落胆の色を見せた。
「残念だったね……あんなにがんばってるのに」
 ぽんぽんと背中を叩いてくれる感触に、自分のことのように残念がってくれる人がいるというのは、とても心強い救いだと千風は思った。
 和泉の次の一言を聞くまでは。
「でも、ちかの答えって前は六歳児みたいだったけど、だいぶよくなったよ。だから諦めないでね」
 千風は机に突っ伏したくなった。まったく慰めになっていないと本人は知っているのだろうか。恨めしげに和泉を睨めば、彼女は不思議そうに瞬きをする。
「六歳児なんかじゃないもん。十五歳だもん」
「じゃあ、『夜になると眠くなるのは?』っていう問題聞いた時、最初になんて思ったんだった?」
「…………『朝起きてるから夜眠くなる』って思った。さすがに息吹には言わなかったけど」
「ほら、ね?」
 にこりと微笑まれてしまえば、もう何も言えない。千風は亜麻色の髪を手でぐしゃぐしゃに乱しながら今度こそ机に突っ伏した。
「これで十九敗目……今日こそはいけるはずだったのにぃぃ」
 千風の悲痛な叫びを聞いて、苦笑しながらも他の友人たちが集まってきて、皆口々に応援の言葉をかけにきてくれた。
 実際、卒業を二ヶ月後に控えた精霊科三年の中で、契約精霊が決まっていないのは千風だけなのだ。
 教師にも顔を合わせるたびに「そろそろ諦めた方がいいんじゃないか?」や「お前ならどんな精霊でもいけるさ」や「あなたが私の胃痛の原因なんですよ」など様々な言葉で激励される。
 元々成績が良好なわけではなかった彼女は、精霊科の中で確実に落ちこぼれであった。
 それ故に皆は千風が息吹との勝負に敗れる度にこうして慰めてくれる。
 しかし、次々と甘い言葉が降ってくる中で、一人の少女が千風の真正面に立った。強気が容姿に現れたような顔の彼女は、このクラスの級長である。
 まずはご愁傷様と言っておくわ、とまったく心のこもっていない労いを言い置いて続ける。
「ずっと気になってたんだけど、なんでそんな息吹に入れ込んでるわけ? 息吹なんて何十年も人と契約交わしていないじゃない。千風には無理があると思うわ。だいたい三日ごとにしか契約を申込みに来るなっていう時点で傲慢じゃない。しかも問いに答えられなきゃ契約しないなんて精霊聞いたことがないわ。息吹がいないと季節の訪れとかを感じることは出来ないし、水も汚くなるけど、私たちにとって使い道ないのだからもう諦めなさいよ。それとも息吹っていう名前をどうしても名乗りたいってこと?」
 『命約』と呼ばれる第一契約を交わす精霊に特別な意味があるのは、学園の生徒なら誰でも知っている。契約すれば、精霊術師としてその精霊の名を自分の名の前に付けて名乗ることになるのだ。
 もし千風が本当に息吹と契約することが出来れば、彼女の精霊術師としての名は「息吹千風」となる。
 確かに名前を重視して契約する精霊を選んだ生徒たちもいたが、千風は口を曲げながら、そんなわけないよ、と彼女の言葉を否定した。
「名前なんてどっちでもいいもん。そもそも使い道なんて考えてないよ。精霊は道具じゃないし、あたしは使役者になりたくないもん。ただ最初に契約する精霊はもうずっと前から決めてたの。……三日ごとしかだめっていうのはあたしもちょっとけちだと思うけど。でも、問題出すようになったのは、あたしがどうしても契約して欲しいって言ったからだよ」
 千風の言葉に級長は呆れた様な笑みをこぼした。その笑みが今朝、残酷にも十九回目の拒否をした息吹の笑みと重なって、千風はますます口を曲げる。
「それは立派な志だけど、綺麗ごとで世界は出来てるわけじゃないでしょう。実際に魔導術師は争いごとばかり起こしてるわけだし、精霊術師は精霊を奴隷のように扱って、大地を荒廃させたりしてるし。それにほら、この新聞に載ってる犯罪者だって四年前まではここの生徒だったんだから」
 彼女が広げた新聞の一面には、先日、精霊を使って地方都市を二つ壊滅させてしまった二人の精霊術師の男たちが顔写真付きで載っていた。
 彼らは今指名手配中で、国中の精霊術師と魔導術師が血眼になって探しているらしい。多額の賞金までも賭けられていた。どうやら入って来た時に皆が見ていたのはこの新聞だったようだ。
 その他の記事でも書いてあるのは術師たちの悪行ばかり。魔呪や精霊たちが大人しい昨今では術師たちの力などほとんど不必要なものになっている。抗争や破壊はそれらの憂さを晴らすためだと言われていた。国の被害は甚大どころではない。
 それが原因で、十五年前には百人以上いたはずの入学者が今では魔導科と精霊科を足しても一学年に三、四十人程度しかいない。卒業生は全員リストニア国の都市機関に就職することが義務づけられているが、最近では都市同士の押し付け合いのようになっている。術師は世間的に待遇が悪くなっているのが現実であった。
 今までずっと黙って級長の言葉を聞いていた和泉が、新聞記事の端を折りながら、大きく息をついた。
「わたし就職試験やり直しなの。せっかくノビアの環境保全課に決まってたのに」
「私だってキロトの環境研究課だったけどしょうがないじゃない。両方とも都市が全部なくなっちゃったんだもの」
 とにかく、と机に置かれた記事を畳みつつ、彼女は千風の額を指でつついた。
「『理想をその手に』なんて格言は古いんだから。理想ばっか追い求めて留年しないようにね。私、級長として先生から相談受けてるのよ。世の中諦めも肝心っていうのは覚えておいてね?」
 ちょうどその時チャイムが鳴り、各々が慌てて席に戻っていった。いきなり静かになった自分のまわりを眺めながら千風は負け惜しみのようにぽつりと呟く。
「……それでもあたしは息吹と契約したいの」
 眉根を寄せてふくれる千風の頭を和泉がにこにことしながら撫でてきた。
「分かってるよ。応援してるからがんばって」
 優しい親友の言葉に潤みそうになりながら、千風はこくりと頷く。放課後はまた図書館で勉強をしていかなければいけない。
 千風はどうしても息吹と契約をしたいのだ。
 教室から見える『春の森』を見つめて、千風は大切な記憶を思い返し、胸の前で手をぎゅっと握りしめる。

 ――忘れたりしないよ。そう決めたから。

 

 

***

 

 

 図書館で精霊の生態に関する分厚い本をようやく読み終えた時には、いつの間にかあたりは赤い夕陽に照らされていた。
 太陽が沈み、夜になると学園の景色は一変する。東西南北に作られた精霊の住処となっている『四季の森』は姿を消し、代わりに魔呪たちの住処、闇を司る『赤地の城』が出現するのだ。
 その時を待ちかねているかのように、赤く染まった森の影に漆黒の城が見え隠れしていた。もうすぐ魔導科の授業が始まってしまう。
 千風は急いで鞄に筆記具を放り込み、司書にお礼を言って図書館を飛び出した。
 急速に外からの光を失っていく階段を駆けおりて校舎を出ると、ぶわっと凩が吹いた。頬を刺すような冷たい風におもわず足が止まる。
『もう帰んの? 落ちこぼれ』
 見上げると、すぐそこに凩が悪戯めいた顔をしてふわりふわりと浮いていた。見かけで判断するなら、彼はこの学園の入学規定年齢である十二歳よりももっと幼く見える。
 枯れ葉色の髪に冬の湖水色の瞳をした少年は、嘲笑うように千風を見下ろしていた。
「自分こそ帰ったほうがいいんじゃないの。もうすぐ夜になるよ」
 鞄を肩に掛けなおしながら、つとめて平静に千風は返答する。落ちこぼれという言葉については触れないでおいた。
 凩はつまらなさそうに鼻を鳴らす。精霊には綺麗な容姿をした者が多いが、彼はどちらかと言えば可愛いと言われそうな部類だ。
『息吹なんてお前には無理だって。あいつが前に契約してた人間はもっともっと優等生だったぜ?』
 凩はこちらの言葉を無視してそんなことを言った。千風は苛立ちを発散するように大きく息を吐く。息が白く溶けていくのを見ながら、うるさいよばか、と返したら、凩の眉がぴくりと動いた。
「級長にでも言われたの? あんたの契約主だもんね。でも余計なお世話だよ。これはあたしが決めたことなんだもん」
 今朝、自分を半ば責めているような口調で言い放った少女を思い出す。彼女がどうしてそこまで 自分に気をかけるのかは知らない。心配しているのかもしれない。
 でも、千風の選択に口を挟む権利など、そもそも誰にもありはしない。決めたのは千風で、それらを背負うのもまた千風なのだ。
「あんたがいると寒いからもう行って。あたしも帰る」
 冬に属する精霊の脇をすり抜けると、薄手の服はなんの役にも立たずに、千風の体は一瞬にして芯まで冷やされた。
『どうなっても知らねえからな』
 吐き捨てて、凩は一気に空に上昇し消えていった。『冬の森』に帰ったのだろう。
 千風は腕をさすって、泣き笑いのような顔をする。けれど、その表情はすぐに消えて彼女はその場を離れた。校舎の入り口から時計回りに敷地を歩いていくと、天を貫くのではないかと思わせるような螺旋階段が現れる。
 真っ白な螺旋階段は斜陽を受けて赤く染まっていた。しかし、上の方は暗闇に沈んで見えない。
 長い長いそれを千風は走るように上っていく。気が遠くなるようなこの階段を上りきらないと学園からは出られない。
 ようやく上りきると、千風の額には汗が滲んでいた。体を曲げて呼吸を繰り返す背中に上から呆れたような女の声がかかった。今日はこんな声ばかりを聞いている気がする。
『もう寝てしまおうかと思っていましたよ。他の精霊科の生徒はとっくに帰っているのに』
「……ははっ。ごめんなさあい。でも綿雲(わたぐも)は待っててくれるって信じてた」
 汗を拭いながらわざとらしく明るく笑うと、精霊の中で唯一学園に勤務している綿雲はその麗しいと言うべき柳眉に皺を寄せた。
『まったく悪いと思ってないでしょう。それで、結果はどうだったんですか? その様子だとまた三日後も朝一番に迎えが必要そうですね』
「……うん。最後の問題また間違えちゃった」
 返答に軽く目を伏せた彼女は、そうですか、とだけ呟き、自らの手でちょうど人一人が座れそうな雲を作り出した。
『私は凩とは違いますから、貴女の決意に口を挟むつもりはありません。けれど息吹は相当な捻くれ者ですから、あまり気にしない方がいいですよ――では、おやすみなさい』
 最後の一言を言う時だけ、澄んだ空の瞳が優しく細まる。
 雲に乗った千風はふんわりとした心地とその優しい眼差しにまた泣きそうになった。でも泣きたくなくて、またわざとらしく笑っておくことにした。
「ありがとう、頑張るね! おやすみなさい」
 千風の言葉と共に雲は学園を離れ、地上へと降りていく。もう辺りはとっくに真っ暗になっていた。
 上空に常にある学園は下から見るとまるで空に浮いた島国のようだ。千風は学園を見上げながら、ほぅっと息を吐く。
「……がんばるよ。がんばる」
 だってあたしは――。
 吐息とないまぜになった言葉は辺りに響くこともなく消える。けれど、その直後寒さでかじかんだ手に不釣り合いなほど温かな空気が触れた。ほんの少しの、しかしそれと気づくほどの温もりが手を覆い、寒さから遠ざける。
 不思議に思って自分の手を見つめたが、なにかがあるわけでもない。手を開いたり閉じたりした後、ふいに視線を感じて自分の背後に首を捻ろうとした。
 だが、作られた雲は淡々と自分の仕事をこなし、千風を地上へと降ろした。急に不安定になった足場に気を取られ、千風の意識はそちらに霧散してしまう。
 地に足を着けた途端、雪の匂いと一緒に土の匂いが立ちのぼった。学園の土とは違う、もっといろいろなものが混ざっている土の匂いはいつでも懐かしさを伴って千風の鼻孔をくすぐる。
 この辺りの地方は、都市機関の手入れが行き届いてないせいか、あまり土が良くない。そのため人もほとんど住んでいなかった。雪が積もる小さな田畑に囲まれたあぜ道をまっすぐ進めば、小さな古い家が見えてくる。
 昔はおとぎ話の魔女が住んでるみたいな家だと思っていたが、実際はそんな神秘めいたものはなにもない、今では土ばかりの小さな庭が玄関先にあるだけの古い家だ。
 小さな窓からは灯りが漏れている。その温かな光に先ほどまで強張っていた心がほぐれていくようだった。
 千風は自分の背よりも少し小さな扉の取っ手を押す。扉は軋む音を立てて内側へと開いた。
 奥には小さな机と乳白色のソファーがあった。そのソファーに座っている老女がこちらをゆっくりと見上げる。彼女は千風とよく似た若菜色の目に千風を映した途端、皺が刻まれている口元を綻ばせるように笑った。
「……おかえり。ちぃちゃん」
 優しくしわがれた声がゆったりと千風を呼んだ。幼い頃両親から呼ばれていた愛称を呼ぶ人は、もうこの世でたった一人だ。その瞬間を幸福と呼ぶのだと、千風は痛いほど知っている。
 ――あたしは精霊術師になって、
「ただいま、おばあちゃん」
 おばあちゃんにきれいな世界を見せてあげたいの。

 千風は後ろ手でぱたんと扉を閉じた。故に気づかなかった。扉から少し離れた場所に真っ白な髪をした美しい精霊が立っていたことに――。

 

 

***

 

 

「いただきまーす」
 千風はきっちり手を合わせた後、皿に盛られた野菜炒めを頬張った。少し野菜は傷んでいたが、炒めればあまり気にはならない。豆を発酵して作った調味料の香ばしい匂いが口の中に広がった。
「美味しい?」
 野菜炒めを咀嚼してから祖母に問えば、野菜炒めを少しずつ口に入れていた祖母は当然のように頷いた。
「もちろん、美味しいわ。ちぃちゃんが作ってくれたものだもの。いつもありがとう」
 千風は笑って、そういえばね、と話し出した。
「今日凩が悪戯してきて、朝行ったら、教室すごい寒かったんだよ。信じられないでしょ。精霊のくせにすごく子どもっぽいんだから。あれでよく級長と契約したと思う」
 あ、ていうか級長に言ってやめさせればよかったかあ、と一人ため息をついた千風に祖母がゆったりと声をかける。まだ六十歳の祖母だが、そうとは思えないほど彼女の行動はひどく遅かった。
「――大丈夫? 風邪ひかないように、今日は暖かくして寝なさいね」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。すぐ先生が来て閉めだしてくれたから」
 そう言っても、毛布は確か屋根裏にあるからもう出しておいた方がいいわね、と心配する祖母に千風は苦笑した。
 早くに両親を亡くしてしまった千風にとっては家族といえば祖母しかいない。小さな頃から甘やかされて育てられてきて、もう十五歳になったというのに、祖母はまだ千風の世話を焼きたがる。
 今、実際に世話をしているのは千風の方なのに。その現実が哀しくもある自分はまだ甘えているのだと千風は思った。
「そういえば、ちぃちゃんは契約する精霊は決まったの?」
 千風の動きが止まる。芋をすり潰して丸めた団子が皿から転がった。
「……ううん。まだだよ。なんだか悩んじゃって」
 取り繕うように団子を食べ始めた千風の様子に気づいた様子もなく、祖母はゆっくりでいいのよと微笑んだ。
 その笑顔を見る度に、自分が嘘をつく度に、千風の胸の中に重いなにかが降り積もっていく。もうすぐ積もり過ぎて息が出来なくなりそうだった。
 それでも祖母に言うわけにはいかなかった。彼女は息吹を恨んでいる――いや、恐れているから。千風がこのニヶ月以上をすべて息吹と契約するためだけに過ごしているなんて、今の祖母に言ったらどうなるか分からない。
 祖母は八年間ずっと病にかかっているのだ。
 術師にとって必要不可欠な真力が、使い過ぎにより体の中で作れなくなってしまう病。病にかかる確率は全人口の二割にも満たないが、もしかかってしまったら治る確率はかかる確率よりさらに低い。
 当然ながら体の中にある真力は無限ではない。けれど、術師の体は食事や睡眠のエネルギーを真力に変換できるようになっているのでよっぽどのことがないかぎり真力はなくならない。
 祖母は世界で有数の精霊術師だった。毎日毎日疲弊した体を無視して術を使い過ぎていたのだ。結果、体は異常をきたし、真力を作りだせなくなった。祖母は八年前を境に精霊を使役してはいない。第一契約も破棄したため、彼女は術師の中でも最も蔑まれる『名失し』となった。
 だが、問題は真力がある人間は真力が枯渇すれば生きていけなくなることだ。祖母の中の真力があとどれほどなのか彼女にも治癒専門の術師にも分からない。
 もう長くはないかもしれない――。
 そう思うたびに千風はいつもこわくなる。この日常が実は夢よりも脆いものだと思い知らされた。
 初めは祖母に精霊術を使わせ続けた人間や、なんにも手を尽くさない術師たちを恨んだ。実際、もう真力がどこまで保つか分からず、手を尽くせない状態だと千風に言った精霊術師を彼女はおもいきり蹴り飛ばしたことがある。誰かを悪者にするのはとても簡単で――とても最低だ。
 祖母は一度も誰にも、恨み言を言ったことはないのに。千風にはそれが出来なかった。ただ黙って死を待つなんて耐えられない。だからこそ千風は精霊術師を目指そうと決意した。十歳の頃だった。
 倒れるほど勉強に没頭し、治癒関係だけでなく真力に関しての文献も読み漁った。すべて祖母を助けたかったという独りよがりのものだった。
 その時、知った精霊の存在を千風は忘れていない。そして、祖母が語ったことについても――。
「どうしたの、ちぃちゃん? やっぱり具合悪いんじゃない?」
 祖母の不安げな問いかけに我に返った千風は、慌てて笑みを貼りつけた。
 野菜炒めはいつの間にかすっかり冷めてしまっていたけれど、しっかり味わうように口に運ぶ。
 もうあんなことは望まない。それよりも大切なものを教えてもらったから。
 だからこそ。おばあちゃんに見せたいものがある。

 

 

***

 

 

 まだあたしが子どもだったころ。たった一度だけ息吹に会ったことがある。

 

 あたしが精霊術師を目指しててちょうど契約する精霊のことでおばあちゃんとケンカした時期だった。
 その年は異常なほど暑い夏で、そのせいか具合が悪くなったおばあちゃんはほぼ毎日ずっとベッドで寝ていた。薬を届けにやってくる大人たちは口々におばあちゃんをちゃんと寝かせてあげてね、とか一人で何でもできるようにね、とか、なにか心配かけるようなことを言わなかった? とかうるさかったのを今でも覚えてる。
 毎回そんな小言を言われるのにうんざりして、おばあちゃんにそれを訴えたくてもケンカした後仲直りをし損ねてたから黙っているしかなかったあたし。おばあちゃんはどれだけ薬を飲んでも苦しそうに寝てるだけだ。あたしはその頃大人もおばあちゃんも大嫌いだった。

 ある時、おばあちゃんの大好きな花に水をやり忘れてしまったことがあって、慌てて見に行ったんだけどもう花は暑さに負けてしわくちゃに枯れていた。
 水をかけたけど、紫だった花はもう色を忘れたように枯れ茶色の汚い花びらのまま。
 具合の悪いおばあちゃんがこれを知ったらと思ったら、あたしはこわくなったんだ。
 もう誰もあたしの家族はいない。あたしはおばあちゃんを繋ぎとめておかないといけないって思った。
 だから家に走って帰って、そっとお財布を持って。あたしは花を買いに行った。
 本当はそっくりの花が良かったけど、花屋さんには売っていなかったから、似ている紫の花を買ってきた。おばあちゃんは具合悪いから近くで花を見たりはしないだろう。
 きっと大丈夫、誰にも気づかれないなんて言い聞かせて鉢に植えられた花を抱えて庭に向かった。
 そうしたら、知らない男の人が枯れた花の前に立っていたんだ。
 あたしはとっさに家の影に隠れた。乾いた土の上に膝立ちになって、男の人を睨みつけるように見ていた。
 とてもきれいで女の人みたいだった。人間っぽくない、雲よりも白い髪と濃い緑の目――ちょうど、そんな色の精霊の話をこの間おばあちゃんとしたのを思い出す。本で読んだ特徴を頭の中で数えて、あたしはすぐに確信した。
 ――あれが息吹だ。
 本当ならすぐにでも捕まえてしまいたかったけど、精霊を初めて見たあたしはどうしてか足が竦んで立ち上がれなかった。
 しかも息吹はずっと花を見つめていて、あたしは自分が枯らしたんだとばれたらどうしようと急に不安になった。早くどこかへ行って、と祈るように花を抱え込んでいたあたしに気づかないまま、 息吹はただ静かに枯れた花を見ていた。

 そうして。あたしは――奇跡を見た。

 真っ白な手で花びらを撫でてから、息吹はそのしわしわの花びらに唇を寄せた。まるで愛しているよと言うみたいに。優しく口づけていた。
 その途端、花があたしから見ても分かるくらいきれいになったんだ。
 力なく垂れ下がっていた茎はまっすぐ伸びて、閉じていた花びらは咲き初めのように開いた。
 そこにあったのはおばあちゃんと一緒に手を合わせて喜んだ時に咲いてた花だった。

 息吹がいなくなった後、あたしは花の下に歩いていった。
 きれいな紫の花。とても育てるのが難しい花で、あたしが物心ついた時からおばあちゃんは球根を植えていたのに、一度も花は咲いたことがなかった。
 花びらに触ると、太陽に照らされてきらきらと反射した水と咲いてよかったね、と言ってるあたしの声と――とてもうれしそうなおばあちゃんの顔を思い出した。
 いつもあたしに優しいおばあちゃんは、おもいきりあたしを抱きしめてくれた。大好きな大好きなおばあちゃんとの思い出。
 ぷっくりと目から涙がふくれあがって、持っていた新しい花に落ちてはねる。
 あたしは泣いた。みっともないくらいわんわん泣いた。きれいになった花の前にうずくまって、買ってきた花を抱えて、ごめんなさいと言った。
 買ってきた花なんかじゃあ、おばあちゃんは喜ばない。あんなふうに幸せな顔して、愛しそうに眺めたりしない。近くで見ないからなんて似た花を買ってきたあたしはばかで、どうしようもなく子どもだった。
 おばあちゃんの花はこんなにきれいだったのに。あたしはそれを隠して捨てようとしてた。きれいだった時もうれしかった思いもすべて忘れて――。

 ごめんなさい。ごめんなさい。もうぜったい忘れないから。
 隣に買ってきた花を埋めながら、あたしはずっと謝っていた。
 もう二度と忘れたくないと思った。優しくてちょっとどじなおばあちゃんのことも。きれいだった花のことも。
 おばあちゃんにも忘れてほしくない。
 もっともっときれいなものを見てほしい。この花みたいに愛しいくらいきれいなものを見せてあげたい。

 

 つまりはそれがあたしが今ここにいる理由で、息吹と契約をしたがっている訳でもある。
 あの日からあたしはずっと息吹を追い求めてるんだ。
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